スマホ病の次に来る
「AI病」
「そんなこと、AIにも分かるよ」
妻にそう言われたとき、うまく言い返せなかった。
相手の気持ちを汲んで、それらしいことを言ったつもりだった。でも、返ってきたのは、その程度ならAIでもできる、という一言だった。
悔しかったのは、たぶん当たっていたからだ。実際、感情を汲み取る”風”を演じさせたら、いまのAIは人間よりうまい。疲れないし、機嫌も悪くならないし、防御的にもならない。いつだって、最適に共感的なことを返してくる。「ちゃんと気持ちを汲めたか」だけで採点すれば、生身の人間はまず勝てない。
その瞬間に、ひとつの感覚が始まっていた。人間の側が、AIを基準にして値踏みされる感覚だ。これを、この記事では「AI病」と呼ぶことにする。
それは、すでに子どもたちが通った道だ
この感覚は、まったく新しいものではない。似たことが、もう十年以上前から、子どもたちの世界で起きている。
ジョナサン・ハイトは、ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネスの倫理リーダーシップ教授で、道徳・文化・政治心理学の研究で知られている。[1]
『不安の世代』で彼は、スマホとSNSが子ども時代そのものを作り変え、10代の不安・うつ・自傷・自殺の急増に影響してきた可能性を、データと社会変化の両面から論じている。[2]
ハイトが問題にしているのは、スマホが便利かどうかではない。子どもが育つ環境そのものが、遊びや対面の経験を中心とする世界から、常時接続と比較の世界へと作り変えられてしまったことだ。[2] その結果、子どもたちは以前よりも不安になり、落ち込みやすくなり、自分を強く持ちにくくなっている。[2]
子どもはどう病んでいるのか
子どもたちの病み方は、派手な崩れ方ばかりではない。もっと静かに、日常の奥で進む。
- 他人と比べる回数が増える。
- 失敗や拒絶に弱くなる。
- 集中力が続きにくくなる。
- つながっているのに孤独が深まる。
- 自分の感情を自分で処理しにくくなる。
ハイトの議論を借りれば、これは「子どもが弱くなった」のではなく、子どもを取り巻く環境が、発達に必要な時間と経験を奪ってきた結果だと言える。[2] 本来、子どもは遊び、ぶつかり合い、待ち、失敗しながら、人との距離感や自分の輪郭を学んでいく。しかしスマホとSNSは、その学びの時間を細切れにし、常に外からの評価を受け取る状態を作ってしまった。[2]
そして、その病み方は男女で違う形をとる。[2]
女子は、SNS上で「イケてる」子の写真やショート動画を見ることをやめられなくなり、それらと自分を比べて自己評価を下げ、不安と憂うつを深めていく。相手の評判を落とし、仲間はずれにする「関係性いじめ」も、SNSによってはるかに容易になった。だから自傷や自殺の上昇率は、女子のほうが大きい。[2]
男子は、オンラインゲームとネットポルノに没入し、現実世界での経験を減らしていく。現実で挑戦し、冒険し、失敗する機会が失われた結果、いつまでも自信が持てず、無力感を抱えるようになる。[2]
日本でも、同じことが起きている
これは英語圏だけの話ではない。日本の統計にも、同じ形が現れている。[3]
小中高生の自殺者数を男女別に見ると、女子児童生徒の数は2010年と比べて2倍以上に増え、2024年には統計のある1980年以降で最多となった。増加は2018年ごろから始まり、2020年に加速し、コロナ禍が収束したあとも止まっていない。一方で男子は、直近こそ減少しているものの、長期的にはスマホ登場前から緩やかな上昇を続けている。[3]
女子のほうがメンタルの悪化が急激なのは、スマホ普及によって女子がより強くSNSに依存し、女子の間で起きやすい関係性いじめがSNSでより容易になったことが背景にあると考えられる。[3]
「日本には当てはまらない」とは、もう言えない。子どもたちが置かれている状況は一昔前とはまったく異なるものになり、日本の子どもたちも、かつてない新しい種類の苦悩を抱え始めている。[3]
AI病は、その大人版だ
子どもがSNS上の「理想の他人」と自分を比べて自己評価を下げたように、大人はAIという「理想の処理速度」と人間を比べて評価を下げる。比較の相手が、加工された同級生から、疲れも迷いもしない機械に変わっただけだ。しかも今度は、病むのは子どもだけではない。
「AIならもっと早いのに」
「AIならそんな間違いはしないのに」
「AIのほうが説明がうまいのに」
そして——「そんなこと、AIにも分かる」。
そんな感覚が広がると、人間の遅さ、迷い、感情、非効率までもが欠点として扱われる。即答できない人が鈍く見え、気持ちを読み取るまでに時間がかかる人が劣って見え、正解を一発で出せない人が無能に見えてしまう。
この病の怖さは、AIを使うこと自体ではない。AIが当たり前になった結果、私たちが人間をAIの物差しで測りはじめることにある。
効いているのは、”風”の一文字だ
だが、妻の一言を何度も反芻して、ようやく分かったことがある。問題は、AIが「感情を汲み取る”風”」を演じられることではなく、それを”風”のまま、本物と同じ物差しで測ってしまうことだ。
AIがやっているのは、コストもゼロ、積み重ねもゼロ、失うものもゼロの、共感の”実演”だ。外したところで、失う信用は何もない。一方で、人間の汲み取りは違う。下手でも、疲れていても、時々外しても、それは二人で積み上げてきた実際の関係と、そこで築かれた信用に紐づいている。読み違えればその信用は目減りし、積み重ねれば増えていく。だから値打ちは、読みの滑らかさではなく、賭けられている信用のほうにあるのだ。
だから「AIにも分かる」は、表面の物差しでは正しくて、肝心のところでは的外れだ。妻の言葉が刺さったのは、私がいつのまにか、自分の汲み取りを”滑らかさ”だけで採点していたからだった。滑らかさで競えば、機械に負ける。当たり前だ。人間が担っているのは、そこではない。
人間を人間として扱えるか
本当は、人間はAIとは違う。人間は遠回りをするし、文脈に左右されるし、気分にも揺れる。だからこそ、関係を築く余地があるし、成長もある。
AIは速い。正確に見える。要約もうまい。でも、人間はそもそも「速さ」や「正確さ」だけで生きているわけではない。曖昧なまま考え続けること、失敗しながら学ぶこと、相手の気持ちに時間をかけて寄り添うこと、正解より関係を優先すること。そうしたものが、人間社会の土台になっている。
ハイトが子どもについて言ったことは、そのまま大人にも返ってくる。子どもから遊びと失敗と対面の時間を奪ったのがスマホなら、大人から「遠回りしてもいい」という余地を奪いかねないのがAIだ。
だから本当に問うべきなのは、AIがどこまでできるかではない。AIが当たり前になった社会で、私たちが人間をどう扱うのかだ。
結び
「そんなこと、AIにも分かる」。あの一言は、表面では正しかった。だからこそ、私はしばらく引きずった。
でもいまなら、こう思える。汲み取りの巧さなら、機械に譲ればいい。人間が守るべきなのは、その巧さではなく、拙くても本物の関係に紐づいているという事実のほうだ。
スマホは子ども時代を変えた。次にAIは、人間を見る基準そのものを変えようとしている。子どもがスマホで不安に病み、大人がAIで人間の評価基準を病んでいく。そう考えると、AI病はまだ来ていない未来の話ではなく、もう静かに、家庭の会話のなかにさえ始まっている変化なのかもしれない。
そしてその変化に気づいたとき、私たちは初めて、自分たちが何を失いかけているのかを知ることになる。
参考
[1] ジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt)。ニューヨーク大学スターン・スクール・オブ・ビジネス倫理リーダーシップ教授。1992年ペンシルベニア大学で社会心理学の博士号を取得し、16年間バージニア大学で教鞭をとった。
[2] ジョナサン・ハイト『不安の世代——スマホ・SNSが子どもと若者の心を蝕む理由』(西川由紀子訳、草思社)
[3] 草思社「話題の本」紹介ページ『不安の世代』(日本の小中高生の自殺者数の推移はこども家庭庁自殺対策室の資料に基づく)
https://www.soshisha.com/book_wadai/books/2819.html
