コンテンツへスキップ

抽象化の抽象化 ——一歩引くことが、なぜ発見になるのか

POSII COLUMN

抽象化の抽象化

——一歩引くことが、なぜ発見になるのか

十九世紀の初め、二百年以上だれも解けなかった問題を、二十歳の青年が「解かないこと」によって終わらせた。彼がやったのは、四則演算を捨てることだった。

解かないことで解いた青年

十九世紀の初め、数学には二百年以上決着のつかない問題があった。五次方程式の解の公式である。二次方程式には誰もが習う公式があり、三次にも四次にも、複雑ではあるが公式がある。ならば五次にもあるはずだ——そう信じて多くの数学者が計算に挑み、そして敗れた。

最初に決着をつけたのはノルウェーのアーベルで、1824年、「五次以上の方程式には根号による解の公式が存在しない」ことを証明した。だが、この話が本当に面白くなるのはその先だ。

数年後、二十歳で決闘に倒れたエヴァリスト・ガロアは、まったく別の角度から同じ問題に答えている。示されたのは「解けない」という結論ではなく、どんな方程式が解けて、どんな方程式が解けないのか、その境目は何によって決まるのかという構造そのものだった。方程式を解く努力をやめ、方程式が持つ対称性の側を研究対象に据え替えたのである(※1)。

ガロアがやったことを一言でいえば、四則演算を捨てたのである。

抽象化とは、捨てることである

足し算とは何か。りんご三個とりんご二個を合わせて五個にする操作——それが具体の足し算だ。だが「りんご」は本質ではない。みかんでも、お金でも、時間でも同じことが起きる。では数はどうか。ここで気づかれたのは、数ですら本質ではない、ということだった。

残るのは何か。「二つのものを組み合わせると、また同じ種類のものになる」「何もしないに等しい操作がある」「打ち消す操作がある」——このわずかな性質だけを取り出したものが、と呼ばれる。

方程式の解たちを入れ替える操作を集めると、それは群になる。そしてその群の形——どこまで細かく分解できるか——が、その方程式が根号で解けるかどうかをそのまま決めていた。数の問題が、対称性の形の問題に翻訳されたのである。

ここが肝心なところだ。ガロアは情報を減らした。数を捨て、演算の中身を捨て、骨格だけを残した。にもかかわらず、以前より多くのことが見えるようになった。

抽象化は、視力を上げる作業ではない。見えているものを減らすことで、残ったものの形に気づく作業だ(※2)。

すごいのは抽象化ではない。その後だ

抽象化それ自体は難しくない。「要するに全部同じことだ」と言うのは誰にでもできる。だがそれはたいてい、抽象化ではなく省略である。両者を分けるのは一点しかない。具体に戻ってきたとき、行く前より詳しくわかっているか

ガロアの枠組みは戻ってきた。しかも、まったく予想外の場所に。

古代ギリシャ以来二千年間、定規とコンパスだけで角を三等分できるか、立方体の体積を二倍にする一辺を作図できるか、という問題が未解決だった。その数年後、これらが不可能であることが証明される(※3)。使われたのは、ガロアが切り開いた「数の世界をどこまで拡げられるか」という理論だった。方程式のために作られた抽象化が、まるで関係のない定規とコンパスの問題を一撃で終わらせたのである。

さらに時代が下る。エミー・ネーターは、物理法則の対称性と保存則が一対一に対応することを示した(※4)。時間をずらしても法則が変わらないこと——それだけからエネルギー保存則が導かれる。空間をずらしても変わらないことから運動量保存則が導かれる。エネルギーが保存するという、あれほど具体的で実験的な事実が、対称性という抽象の帰結だった。

抽象化にはこういう利子がつく。元本であるもとの問題を返した上で、想定していなかった具体が、後から次々と回収されてくる。

大学とは、抽象化の訓練所である

大学に入ると、ほぼすべての学科で同じことをやらされる。

物理では、リンゴも月も同じ式で落ちることを習う。同時に「何を無視してよいか」を習う。空気抵抗、リンゴの色、月に住む兎——現象から何を削れば骨格が残るのか。それが物理という学問の実質である。経済学では、生身の人間から欲望と選択だけを抜き出して効用と呼ぶ。生物学では、無数に異なる個体からゲノムと選択圧を抜き出す。

そして文系も何ら変わらない。社会学の「権力」、政治学の「国家」「正統性」、法学の「故意」——これらはすべて抽象概念だ。日常語の顔をしているが、日常語ではない。厳密な定義を与えられることで初めて、異なる時代・異なる社会を同じ土俵に載せて比較できるようになる。抽象化とは、比較を可能にする装置でもある。

学科の違いとは、切り口の違いにすぎない。たとえば「人が人を殺す」という一つの出来事を、法学は責任能力と故意で切り、心理学は衝動と認知で切り、公衆衛生は統計と分布で切り、進化生物学は適応で切る。どれも同じ具体を見ている。違うのは、何を捨てたかだ。

博士課程でやっているのは、境界線を引き直すことだ

学部で学ぶのは、完成した抽象化のカタログである。教科書とは、先人が引いた境界線の一覧表だ。

修士に入ると、まだ固まっていないものに触れる。最前線では、抽象化は完成品ではない。

そして博士課程まで進むと、多くの人が同じ感触に行き当たる。研究上の対立や矛盾に見えたものが、しばしば言葉の境界線の引き方の問題だった、という感触である。

「AとBは違うと言われているが、本当に違うのか」「この二つの理論は対立しているのか、それとも同じものを別の側から見ているだけなのか」

こうした問いに正面から答えようとすると、結局は定義に手を入れることになる。定義を一ミリ動かす。すると、対立していた二つが同じものの二つの側面になったり、逆に同一視されていたものが二つに割れたりする。うまく引けたとき、その空間の中で言葉が破綻しなくなる。矛盾が消え、例外が消え、言いたかったことがようやく言えるようになる。

博士論文の本体は、しばしば結果ではなく定義である。新しい事実を見つけたのではなく、事実が矛盾なく並ぶような言葉の空間を作った——そういう仕事は、決して珍しくない。

捨てすぎると、犯人は捕まらない

抽象化とは捨てることである、と書いた。では、捨てれば捨てるほど良いのか。まったくそうではない。

かつてテレビの事件報道で、犯人像の分析を求められた元警視庁捜査一課長が、こう答えたことがある。

「20〜30代、もしくは40〜50代の犯行」テレビ報道での、元警視庁捜査一課長によるコメント

この発言は間違っていない。おそらく完全に正しい。だが、何一つ絞り込んでいない。容疑者の年齢層を語っているように見えて、実際には全年齢層を語っている。誤りを一切含まない代わりに、情報も一切含んでいない。

これが抽象化の失敗形である。捨てすぎると、命題はトートロジーに漸近する。そしてトートロジーでは犯人は捕まらない

厄介なのは、この失敗が失敗に見えないことだ。抽象度を上げるほど、反論されにくくなり、例外が消え、そして賢そうに響く。「要するに人間の問題だ」「結局はバランスの話だ」「時代が変わったということですね」——どれも反証しようがない。だが反証しようがないということは、何も言っていないということだ。

捨てすぎれば、手元には何も残らない。捨てなければ、目の前の一件から何も持ち出せない。適切な抽象化とは、この二つの崖のあいだにある、意外なほど狭い場所を通ることである。

そして率直に言って、これはとても難しい。どこまで捨てれば骨格が残り、どこから先を捨てると骨格まで消えるのか——その境目に公式はない。分野ごとに違い、問いごとに違い、同じ問いでも時代によって動く。学問が何年もかけて人を訓練するのは、煎じ詰めればこの一点のためだといってもいい。

抽象化は誰にでもできるが、適切な抽象化は能力である。

では、良い抽象化とは何か

ここまでが「抽象化の話」だとすれば、ここからが抽象化の抽象化である。分野を越えて残る条件を、抽象化そのものから抽出してみる。

  • 一、捨てたものが選ばれている:何を残すかではなく、何を捨てるかで質が決まる。捨て方の下手な抽象化は、たいてい何も捨てていない。
  • 二、具体に戻れる:降りられない抽象は空語である。「要するに人間関係だよ」で止まる話には、戻り道がない。
  • 三、想定していなかった実例が、後から入ってくる:群の定義が生まれたとき、結晶の構造も、ルービックキューブも、素粒子の対称性も、公開鍵暗号も、そこには存在しなかった。だが全部あとから入ってきた。これは抽象化の正しさに対する、おそらく最も強い検証である。
  • 四、境界が痛い:良い定義は、ぎりぎりのところで何かを排除している。「これは含まれるが、これは含まれない」と言った瞬間に、誰かが反対したくなる——その痛みのない定義は、たいてい何も言っていない。「20〜30代、もしくは40〜50代」は、誰も排除していない。だから誰にも反対されない。だから何の役にも立たない。

四番目は、科学における反証可能性の定義版だと思えばいい。何も排除しない命題が科学的でないのと同じく、何も排除しない定義は概念的でない。

一歩引く、は逃げではない

「一歩引いて見る」という言い方は、日常ではしばしば消極的な意味で使われる。距離を取る、深入りしない、というような。

だが、ここまで見てきた通り、抽象化としての「一歩引く」はまったく逆の行為だ。それは対象を手放すことではなく、対象の余計な部分を手放すことで、遠くにあるものと同じ形をしていることに気づく技術である。近くにいる限り、リンゴと月は少しも似ていない。

人類は言葉を持ち、数を持ち、そして抽象化という技術を手に入れた。おそらくこれが、私たちの持っている最も射程の長い道具だ。二十歳で死んだ青年が方程式のために作った枠組みが、二千年前の作図問題を終わらせ、百年後の素粒子物理を支えている。そんなことが起きる道具は、他にあまりない。

抽象化とは、人類の叡智である。

※1 五次以上の方程式が根号で解けないという結果そのものは、ガロアより先にアーベルが得ている。ただしアーベルの証明は、根を入れ替えたときに式がどう振る舞うかを一つずつ追っていく、きわめて具体的な議論だった。のちの群論につながる置換という道具は使われているが、「群」という抽象概念の一般論から結論が転がり出てきたわけではない。「アーベル群」という名称は後世が敬意を込めて付けたものであって、アーベル自身がその一般論を用いたのではない。結果の先取権はアーベルにあり、抽象化という方法の先取権はガロアにある、と切り分けるのが正確だろう。

※2 厳密にいえば、ガロア自身の手元にあったものもまだ「抽象群」ではない。ガロアが扱ったのは根の置換という具体的な操作の集まり(groupe de substitutions)であって、今日の教科書にあるような、公理だけで定義された群が姿を現すのは半世紀ほど後——ケイリー、ヴェーバー、フォン・ディックらの仕事を経てからのことになる。抽象化は一度では完成しない。誰かが具体の中に構造を見つけ、次の世代がそこから具体を剥がし、さらに次の世代が残った骨格に名前を与える。抽象化それ自体が、何世代もかけて抽象化されていく。

※3 角の三等分と立方体倍積の作図不可能性を証明したのはヴァンツェル(1837年)で、ガロアの死の五年後にあたる。用いられたのは体の拡大次数の議論であり、ガロア理論そのものではないが、今日ではガロア理論の枠組みの中で説明される。

※4 対称性と保存則の対応(ネーターの定理)は1918年。時間並進対称性からエネルギー保存則が、空間並進対称性から運動量保存則が導かれる。

アイキャッチ画像 エヴァリスト・ガロアの肖像(1848年のスケッチ、パブリックドメイン/Wikimedia Commons)をもとに加工。

最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。

大河原潤

大河原 潤

AI開発専門家

ブーム以前からAI研究に携わる、本物の専門家。「AIに使われる」のではなく、「AIを使いこなす」確かな技術力を提供します。

【アカデミックな裏付け】

  • カリフォルニア大学リバーサイド校 博士前期課程修了(研究分野:測度論、経路積分)
  • アメリカ数学会のジャーナルに論文発表

【社会的に認められた専門性】

  • AI関連書籍:『誤解だらけの人工知能』(2018年)、『AI×Web3の未来』(2023年)
  • プログラミング専門書:実務的な技術書を2冊出版(確かな実装力の証明)
  • 100社以上のAI導入コンサルティング実績、特許売却経験あり